福島第一原発 ―真相と展望 (集英社新書)
アーニー・ガンダーセン
集英社
2012-02-17

をじっくり読んだ(@_@;)

原発の事は専門家では無いから分からないでは済まない時代です。

日本のいわゆる専門家が福島第一原発事故直後、現地にも行かずテレビで安全だと言ってる時、アーニー・ガンダーセンはCNNにいち早く原発事故レベル7を指摘しています。

非常に深刻な事が書かれているが、今回はその中の
GE MarkⅠ型BWR:格納容器の水素爆発について考えましょう。


本のはじめにの冒頭で、
GE MarkⅠ型BWRと言うモデルに対しては設計や運用上の危険性について何十年も前から警鐘が鳴らされていました。
それにもかかわらず深刻な事故が発生してしまったことに、四十年の間、原子力の分野に関わってきた者として大変心を痛めています。
とある。

福島第一原発  GE MarkⅠ型格納容器
水素爆発までに何が起きたのか。!アーニー・ガンダーセン

私は福島第一原発について、津波が襲ってから水素爆発が起きるまでの間に何が起きたのか、この点に焦点を絞りたいと思いました。
そして私はこれまでの歴史的な記録を検証することで、何か重要な手がかりを得られるのではないかと考えたのです。


▽格納容器が『小さすぎる』GE MarkⅠ型

ここで少し話を戻して、一分ほど原子力発電を構成する要素に関するお話をさせていただく必要があります。
原子炉は原子炉核の容器の内側に、文字通り格納されています。
格納容器については先ほどもその姿をご覧いただきましたが、現在映し出されているのはブラウン・フェリー原子力発電所の原子炉です。
格納容器のてっぺんにはふたがあり、この蓋はたくさんの、非常にたくさんのボルトによって固定されています。
このお茶を淹れるための器具を使って、別の説明を試みましよう。
これが格納容器に当たり、原子炉はその中に設置され、てっぺんに蓋(ふた)がねじ止めされます。

このため事故が発生し、格納容器内部の配管が損傷したとしても、理論的には汚染されたガスは格納容器内に密閉されたままになります。
この原子炉格納容器が非常に小さいことは、長く指摘されてきた事実です。
この結果、アメリカの原子力規制委員会は、1980年代この型の原子炉に通気口をつける改良を行うように指示しました。
その理由はこの原子炉が設計された当時は、事故が発生すれば原子炉内で水素ガスが大量発生することを、技術者たちが理解していなかったためでした。
そして福島の事故で、それが現実になってしまいました。
福島では冷却装置が機能しなくなったため、核燃料棒が非常な高温になりました。
そして水と反応した時、水素ガスが発生したのです。


▽格納容器内の圧力は一定数値以上上昇せず、水素爆発前に格納容器上部から漏れていた(ToT)/~~~

事故初日の事故に関するデータは、控えめに言ってもめちゃくちゃです。
私は何とかこのデータを整理することができましたが、かなり複雑ですが、この資料を使って道筋をつけて行かなければなりません。
ご紹介するのはたくさんのマスがある表です。
最初の列は日にちと時間。
しかし私が最も興味があるのは、4列目を過ぎてからです。

私はこれを1立法インチあたり何ポンドという、もっとわかりやすい単位を使ってご説明しようと思います。
表の最後にあるのは事故を起こした直前のもので、圧力は大気圧と等しくなっています。
つまり数値は1パスカル、14.5ポンド/立法インチになります。
そこに津波がやって来て、電源が失われました。
そして次のデータの計測時点は8時間後になっています。
ほとんどの機器の電源が失われ、記録が残されていないのです。

そして2日目の朝になると、格納容器内の圧力が普段の9倍、125ポンド/立法インチにまで上昇しました。
しかし、実はこの格納容器は、125ポンド/立法インチの圧力に耐えられるようには設計されていないのです。

少し詳しく見てみましょう。
午前9時30分になると圧力が下がり始め、続く7時間のうちに圧力はさらに低下し、2日目の朝の時点よりもかなり低下しました。
ここで最初の疑問が出てくるのですが、午前中より午後の圧力の方がはるかに低くなった理由は何でしょうか?
考えても見てください、格納容器の中ではあらゆる種類の水素ガスが生成されつづけていたのに、なぜ?

ひとつ考えられる事は、格納容器の通気口が開いていた、という事です。
しかし、この時点でベントは行われていません。
ではなぜ圧力は低下したのか?


▽40年前の『ストレステスト』

おそらくこういうことであっただろう、と私が信じるテストが過去に実施されていたのです。

それは40年前、アメリカのノース・キャロライナ州にあるブランズウィック原子力発電所で行われました。
今やアメリカの原子力工業界、IAEA、日本の関係者、彼らすべてがこの事実を把握していますが、この試験が行われたという事実に目をつぶり、あたかもそんなものは存在しないかのように装っています。

40年前に起きた事、それはこのような事です。
格納容器内の圧力が高まり、その圧力が100ポンド/立法インチを超えたとき、まったく予期せぬ事態が発生したのです。
格納容器のてっぺんにあるふたがはずれ、持ち上がり始めたのです。
もう一度ここにあるお茶の容器で、ご説明しましょう。
格納容器のふたを固定しているボルトが伸びきってしまい、ふたが持ち上がり、その結果ガスが噴き出したのです。
この結果100ポンド/立法インチの圧力で、ガスの漏出があり得る、という事実が提示された事になります。

これは事故ではなく実験であり、圧力を上げたのは水素ではなく空気です。
しかしブランズウィック原子力発電所にある原子炉は、100ポンド/立法インチの圧力で漏出が始まる事が確認されました。


▽予期せぬ『ベント』で水素ガスが充満

それでは福島の事故の表をもう一度見てみましょう。

どの時点で福島の原子炉は暴走を始めたのでしょうか?
そうです、まさに圧力が100ポンド/立法インチを超えた時点です。
この時点で格納容器から水素ガスの漏出が始まり、原子炉建屋内に充満し始めたのです。
ベント作業を始める前から、格納容器は「開いて」しまっていたのです。

爆発の直前、福島第一原発を撮影した写真をご覧ください。
明らかにベント、通気口が開いています。
そして写真の右側、排気装置のてっぺんから水蒸気が立ち上っているのが見えます。
この通り、てっぺんから煙が立ち上っているのが確認できます。
この煙の正体は高濃度に汚染された放射性ガスと水蒸気です、それが白煙の正体です。

これで爆発直前に、「意図しない」格納容器のベントが行われていたことがわかりました。

今では日本側も格納容器のベントは行われていたが、配管のどこかで、あるいは何らかの理由で原子炉内に漏れ出した水素ガスが爆発を引き起こした原因である、と述べています。


▽『ベントの遅れが爆発原因』のウソ

しかし私の考えは違います。
原子力産業界の言い分も、日本側の言い分も受け入れがたいものです。
ここにあるデータが、40年前にブランズウィック原子力発電所で行われたテスト通りの結果になったことを物語っています。
つまり記録が残っていない8時間の間、あるいはそれ以上の時間、ふたが持ち上がることによって、基本的に格納容器は破裂したのと同じ状態にあった。
そこからガスが噴出していたために、格納容器内の圧力が100ポンド/立法インチ以上 になることは無かったのです。

格納容器から漏れ出した水素ガスは原子炉建屋内に充満しました。
後は、火花が散るだけで原子炉建屋は吹き飛ばされることになります。

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これは極めて重要な違いです。

原子力産業界、アメリカ原子力規制委員会、そして日本はもっとしっかりベントを行っていれば爆発は防げた、と言っています。
しかし、格納容器のふたがすでに空いていたのであれば、ベントは関係ありません。

GE MarkⅠ型は内部の圧力が高まった場合は正常にベントができない、構造的な欠陥を抱えているのです。

福島第一原発のBWR型原子炉が設計通りの性能を発揮したのかどうか、世界中にあるBWR型原子炉にとってきわめて重大な問題です。



福島第一の5・6号機は無事だったのは設計変更が一因で、記事の最後に後述します。(*^^)v

新たな技術上の発見があったのに、何故1~4号機には適用されなかったのか?

答えは採算です。

東京電力は初期投資の上に支出を重ねたくなかった。

またリスクの存在を認める事自体、好ましくありません。

「旧型も充分安全だが、こちら(5・6号機)は特別に安全だ」と言うわけです。
日本のGE MarkⅠ型原子炉は福島第一 1、2、3、4、5号、敦賀1号、女川1号、島根1号、伊方 1、2、3号の11基あります。

福島第一原発事故前に作成されたGE MarkⅠ型原子炉炉心溶融動画=シビアアクシデントは想定済みだったが、対策は。。。??


福島第一原発5、6号機は発電所敷地の北側、双葉町内に並んで建設された。

この敷地は第三紀層の岩盤に建屋を直接設置する地震対策のため、いずれも標高30m以上の高台を削って造成したものだが、1~4号機が標高10mまで掘削したのに対して5、6号機では13mとされた。

敷地面積は5、6号機を合わせて約55,000m2である。


また、1号機の建設と並行して専用港湾の築造が実施されたが、5、6号機は離れた場所の建設となるため、取水路開渠築造のため、北側の防波堤を着岸部から約100m分撤去、残存北側防波堤尾部から460m北側に海岸線と並行した防波堤を築造し、その北側の先端から直角に着岸部まで新たな北側防波堤着岸部を建設した。

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5、6号機防波堤工事は1971年12月に着工、1975年3月に竣工した。

5号機の設計は基本的には東芝が下請を行った2号機や、主契約者として受注した3号機を踏襲したものだが、藤田京らによれば元々国内外に先行機が存在していたため、設計・工程上取り入れ可能な改良案は出来るだけ採用する方針であった。

更に着工後、電力需要状況悪化により1975~1976年の約2年間、長期保管期間を挟んだため、この期間を最大限利用して国内外の先行BWR機の貴重な経験を及ぶ限り盛り込むことができた」と述べている。

結果、建設には76ヶ月の期間を費やしている。


5号機の場合、水圧試験と系統試験開始は予定工程通りだったが、その後試験を中断し、約2年間の保管を経ることとなり、試験を再開し、燃料装荷するまで2年半となる変則工程であった。

この結果、5号機で新設された下記の系統については、工場でモックアップテストを実施し、現地での新設計によるトラブルを防止した。

  1. 燃料自動交換機
  2. 可燃性ガス濃度制御系
  3. CRD(制御棒駆動装置)自動交換機

その後、応力腐食割れ対策等で先行機に実施された改造を本機も建設中に取り入れるため、改造を実施した。結果、保管後の1976年12月に再度第一次原子炉圧力容器水圧試験を受検した。

起動試験時の最初の工程が核燃料の装荷であり、1977年7月2日より開始された。

本機は燃料棒自動交換装置を使用して燃料を装荷したため、運転員の肉体的、精神的負荷を大幅に軽減することが出来、定期検査時の被曝量低減にも大きな効果があることが確認された。

そもそも、各燃料集合体は一律に均一のタイプを数百本装荷している訳ではなく、当時は濃縮度、ガドリニウムの有無による3種類のタイプを混用して配置することで運転中の出力分布の管理に役立てていた。

その各燃料集合体を使用済み燃料プールから取り出し、クレーンにより運搬する燃料の位置決め、速度制御等をコンピュータで予めプログラムした通りに動かすのが自動交換機の役割である。

従来の燃料交換機は手動式で、熟練した運転員が1~2名の補助員と組んで、目視によって計画的な燃料の挿入、交換、配置換えを実施していた。

使用済みの燃料集合体は放射化されているので、これを自動化することによって、交換作業を迅速化して被曝量を低減することに資する目的がある。

また、作業員が燃料の入った原子炉ウェルから離れて作業出来るため、離隔距離にも余裕を取ることが出来る。また、定期検査時間の短縮という設備利用率向上の目的もある。

自動交換機を導入したと言っても、燃料装荷の操作は中央操作室では実施するようには造られていない。

原子炉建屋5階に設けられた運転台から燃料棒を目視しながら、遠隔操作される。

初装荷燃料しか圧力容器中に挿入されていない起動試験工程初期には実質的には汚染は無い状況だが、「出入りする人は必要最小限の物しか持ち込まない」という放射線管理区域としての原則を順守する形で運用されていた。

自動交換機の底には水銀灯が設置されているため、炉内は燃料を殆ど装荷していなくても青く光って見えたという。

なお、自動交換機の外見自体は1-3号機の5階に据えられた燃料交換用のクレーンと大差はない。

作業工程としては前半は一日24~25本のペースで装荷し、後半は装荷中の試験が減少するため一日45~50本程度のペースでの装荷となった。

CRD自動交換機の設置も本機では建設時から実施された。

据付工事は起動試験期間中に行われ、再循環系のライザ管への高周波加熱による応力腐食割れ対策工事と合せ、1.5ヶ月の工期を要した。

これに対して元の起動試験工程は9ヶ月であったが、下記のように試験工程を予定以上に順調に消化したため、実際には9ヶ月の予定は約1ヶ月短縮できたという。

併入後

1977年8月26日には核加熱試験を開始、翌9月22日には系統への初併入を行った。

併入は正午に所長以下関係者立会いの元試運転当直長がスイッチを入れ、周囲の観衆から一斉に拍手が沸いたが、直後にANNと呼ばれる警報ランプが点灯し、初併入は失敗した。

5号機は発電機は東芝製で、発電機からの発生電力を変換する主変圧器三菱製であり、両社の貼付した記号が違っているなど、チェック不足によるものであった。幸い電気機器の破壊には至らなかったため点検後深夜に再併入を実施し、今度は成功した。

その後は、先行機の運転経験蓄積もあって、25%、50%、75%、100%出力試験(全て官庁検査)をクリアし、起動試験期間中スクラム無しという世界初の記録を樹立したという。

こうして、5号機は1978年4月に商業運転を開始した。

備考

5号機が運転開始した1978年は日本原子力発電東海2号機中部電力浜岡原子力発電所2号機と日本国内でBWRが相次いで運転開始した年でもあった。

更にスケジュールの関係で本機がその年の最初に運開となっていた。

福島原子力建設所発電準備業務に就いていた金城邦和によれば、他機の模範にならなければならないという意気込みが東京電力、通産省の双方にあり、官庁検査に当たって、判定基準の明瞭化などを目的に検定要領書の検討が続けられ、深夜1時~2時に及ぶ場合も少なくなかったという。

なお第一次オイルショックの際に2号機を早期投入を企図したのとは反対に、本機は上述の事情から運転開始延期していた。

結局、1977年の定期検査では原子炉給水ノズルに熱疲労割れも発見され、1~3号機が停止し、発電所全体の稼働率は19%まで落ち込んだ。


なお、5号機は2011年3月の福島第一原子力発電所事故において冷温停止に成功した。